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今や、誰もが満員電車に揺られる必要はない。国が支給する専用のVR端末とネット環境さえあれば、学校も職場も、すべて仮想空間の中に存在する。
授業も会議もログインひとつ。人々は通勤の苦痛から解放され、タイムパフォーマンスという言葉が新たな価値になった。
もちろん、いいことばかりではない。交通機関の利用者は激減し、現実の商業施設や観光業は軒並み打撃を受けた。
それでも、誰もこの便利さを手放せなかった。——現実(リアル)なんて、ログインすれば事足りる。
そうした新時代を、誰よりも自然に受け入れている青年がいた。現在大学生活を謳歌する、
朝起きて端末を装着し、仮想キャンパスにログイン。授業を受け、サークルの仲間たちと会話し、放課後には少しゲームをする。
実際に外へ出るのは、アルバイトかスポーツをするときくらいだった。だからこそ、現実の空気を吸うたびに「懐かしい」と思う。VRの生活が当たり前になりすぎていた。
——いや、もしかしたら、彼にとって現実のほうが“逃避”だったのかもしれない。
和士には、忘れられない過去がある。
幼いころは海外で育ち、父は一流のサッカー選手だった。しかし、突然の事故で父を失い、母と共に日本へ帰国。その母も心の傷から立ち直れず、早くに亡くなってしまった。
それでも和士は、父の背中を追ってサッカーに打ち込み続けた。ユース日本代表に選ばれるほどの有望株。
けれど——試合中の事故で膝と足首を壊した。
何度も手術を受けたが、元の動きは戻らなかった。夢は潰えた。十代の終わりにして、世界から取り残されたような気分になった。
そんな和士を救ったのが、友人の一言だった。
「まあ、息抜きだと思ってやってみろよ。面白いからさ」
そう言われて始めたのが、ファンタジーVRMMORPG、
最初はただの暇つぶしだった。
だが、初めて体験する“もう一つの現実”は、あまりにも鮮烈だった。
広大な世界、美しい景色、そして数えきれないほどの冒険者たち。
和士は夢中になった。サッカーで失った「戦う感覚」を、再び手に入れた気がした。VAOが、正しくVividな鮮やかで、Arcadiaの楽園のような体験をOnlineで和士に提供してくれたのである。
学業はしっかりと好成績で修めていたので、志望校への合格は問題なかった。それ以外の時間、これまでの怪我で夢破れた鬱屈とした気分を晴らす様にVAOの世界にのめり込んだ。サッカー以外で夢中になったのはこれが初めてだった和士が廃人の様にネトゲにはまるのは仕方なかったのかもしれない。フルダイヴの中で自由に動けて自由な目的を目指すプレイが和士には実に充足感に満ちていたのである。数年でトップランカーにまで肩を並べるほどにやり込んだ。
だがVAOにはこれまでのVRMMOにはない、独特のシステムがあった。通常はレベルを上げて行けばスキルやアビリティなど、スキルポイント等を振り分けて職業ごとに見合った能力が手に入るのだが、VAOにはこれといった定番のシステムが存在しないのである。特定の条件を満たさなければ、スキルやアビリティが入手不可能なのである。そのため、多くのプレイヤーがオリジナリティを求めて独自の育成を試していった。
その独特、いわば尖りすぎているシステムが良くも悪くも話題になり、スキル取得に成功した先達らによってSNSや攻略サイトは盛り上がりを見せた。和士もそれらに夢中になっていた時期があったが、独自のプレイスタイルを構築してからは、偶にしか目を通すことはなくなった。先人たちの通った道をなぞるのでは面白くないという思いが、彼の中では大きくなってきたのである。
彼が最初進めていた職業はいわば
VAOには広大なオープンフィールドがあり、1プレイヤーが国家を創設することもできる。莫大な資金や国民となってくれるプレイヤー達の支持が必要になるが、不可能ではない。国営が上手くいけば資金も莫大になるし、どこかの国に所属したいというプレイヤー達が集まり、勢力も大きくなる。他国と戦争というPvP対決をすることもできるようになり、勝利すれば得られる領地や互いが最初に賭けた資金も総取りでき、旨味があるのである。MMOが最終的にはPvPに行き着くのはある意味仕方がないのかもしれない。
ゲーム内の友人カシューが創設した国は<エデン>。Arcadiaという桃源郷の中に<至上の楽園>を創るとはいかなるネーミングセンスであろうかと当時の和士は思ったものだが、目立つことで散々戦争というPvPに巻き込まれて美味しい思いをしたので、今では悪くないと思っている。いや、むしろ愛着すらある。荒んでいた頃と比べれば、不健康かもしれないが、VAOの中での体験は和士にとって掛け替えのないとまではいかないまでも、大事なものになっていた。あの頃の彼は、現実の痛みを忘れ、ただ純粋に楽しんでいたのだ。
エデンが落ち着いてからは、他の遊び方も模索しようと思い、サブキャラを作成することにした。聖騎士然としたカーズというキャラがある意味理想的な筋骨隆々な自分なら、真逆なものを創ってみようということになり、どうせVRの中だけだからということで女性キャラを創ってみるのもいいかもしれないと思い、かなり細かいキャラ造形まで可能な安い課金アイテムをアルバイト代で賄って、細部にまでこだわって作成した。
今回は比較的身軽な装備で進めようと思い、片手剣と刀、魔法も習得して魔法剣士の様な感覚で育成した。それでもイマイチ何かが足りないなと思っていた頃、召喚魔法のアップデートが行われた。召喚獣を使役して戦わせるというスタイルだった。育成に行き詰まっていたところに思いもよらないアップデート、しかもVAOは普段ほとんどアップデートがないので、乗るしかないと和士は思った。そうして育成は進み、かなりの強キャラの作成に成功したのだった。
「ナギ兄ちゃん、もうすぐ晩御飯だよー」
従妹の
「ああ、うん、もうちょいしたら行くよ。ありがとう、ばあちゃんにすぐ行くって言っておいて」
「まーたゲームやってる。へー、ふーん、そういうのがナギ兄ちゃんの好みの女の子なんだ? はー、そりゃそんなVRにいるみたいな美人いないもんねー、そりゃ恋人の一人も作らない訳だわ。好意を持ってる子達可哀想にー」
PC画面を覗き込んで、キャラクター選択画面にいる女性キャラを見ながら忍が不躾なことを言った。
「おい、勝手に見るなよ。って誰だよ、好意持ってる人なんかどこにいるんだよ?」
和士は数年前に幼馴染の恐らく片思いだった女の子を病気で亡くしている。それ以来どうもその手の話が苦手になっていた。でもいつかは折り合いを付けないといけないとは思っていた。しかし、和士はどうしようもない程恋愛事情に疎い。好意を向けられても気付かずに華麗にスルーすることが多々あった。
「さあねー、誰でしょうか? もしかしたら近くにいるかもしれないよー。じゃあ、早く降りて来なよー」
忍は思わせ振りなことを言いながら、部屋から出て行った。階段を降りる足音が遠ざかる。
「身近な人? 余計わからん。あ、やり忘れたクエがある。サクッとやってから行くか、腹も減ったし」
もう一度VRサークレットを装着し、ログインコマンドを唱える。
「Connection——on!」
次の瞬間、視界が真っ白に染まり、意識が落ちた。
◆◆◆ 視界が光に包まれたあと、和士の身体はふっと浮いた。——ログイン、完了。
風と足元の草の感触。いつものフィールドだ。
エデンの都から南に数キロ進んだところにある平原。この夕暮れの時間帯になると緑色の皮膚をした小鬼、いわゆるゴブリンが爆湧きする。低レベルのモンスターだが、この時間制限クエストの報酬はなかなかに美味しい。早速南からゴブリンの大軍が押し寄せて来る。しかし、普段ならこの報酬狙いで来ている他の
「珍しいな。ここ、いつも混んでるのに」
妙だなと思いながらも、目前に迫ったゴブリンの群れに向かって駆け出す。和士は左利きのため、腰の右にある鞘から左手で刀を抜刀、刃が夕日を受けて光る。そうして次々と斬り伏せていく。
「誰も来ないってことは総取りだな。やったぜ」
刀を一振りするたびに何匹ものゴブリンを斬り裂く。草を踏みしめる音、金属がぶつかる感触。手応えが、やけにリアルだ。だがいつもなら他のPC達が多く集まるため、取り囲まれることなどないのだが、今回はソロのため、あまりにも多勢に無勢が過ぎて切りがない。
「仕方ない、奥の手を使うか」
敵陣から後ろへ跳び、右手に魔力を集中させる。
「舞い踊れ火炎よ、
グギャアアアアアアアアアアア!!!
炎の渦が大地を焼く。
ゴブリン達の悲鳴が重なり、空気が震えた。放たれた炎の舞によって前進するゴブリン共は焼き払われたが、屍を諸共にせずに次々に敵の波が押し寄せて来る。
「まいったな、湧きすぎだ。召喚で押し切る!」
低レベルとはいえ、これは少し骨が折れると感じた和士は両手を広げ詠唱、召喚魔法を発動させる。
「さあ力を示せ、出でよ、
グルウウウウウウウゥ!!! ガアアアアアアアアァ!!!
和士の前方に展開された魔法陣から、全身に炎を纏い業火を噴き出すサラマンダーと周囲を凍てつかせる凍気を纏った氷で形作られたかの様なアイスリザードが召喚され、吐き出した炎と氷のブレスが敵陣を蹂躙する。更に味方戦力の能力を向上させるために、蠱惑的な衣装を身に纏った背中に翼が生えた
「お呼びですか、御主人? なるほど、ゴブリンの群れですね。ならば士気を高めるために歌いましょう」
「話が早くて助かる」
セイレーンの透き通る歌声が響き渡り、召喚獣と和士の能力が底上げされ身体が軽くなる。サラマンダーの炎は赤々と燃え、アイスリザードのブレスは鋭さを増した。
完璧だ。それでも本来なら複数人で挑むクエストのため、ゴブリンの数はまだまだ多い。セイレーンを後ろに下がらせてから、和士は再び剣を取って敵陣に飛び込んだ。
◆◆◆ 和士と召喚獣達がゴブリンの大軍を圧倒していたとき、エデン王国からゴブリン討伐の任務を負った騎士達が遅れて平原を見下ろせる小高い丘の上に集結していた。彼らはそこから、たった一人でゴブリンの大軍を圧倒する何者かがいることを発見する。斥候に向かっていた兵士が、軍の隊長格の男に話しかけた。「ライアン副隊長、状況ですが……」
「見ればわかる、何者だあれは? たった一人であの数のゴブリンを蹴散らすとは……。しかも連れているのは召喚獣なのか? しかも同時に3体も使役しているとは」
彼らは騎士である。国、エデン王国という母国の為ならば喜んで殉じる覚悟がある。だが、それでもあの業火と吹雪の吹き荒れる中に割って入っていくのは恐怖だと感じていた。それでも、どう見ても小柄な一人の戦士に全てを任せてここから高見の見物をすることなど、彼らの矜持が許せなかった。
「行くぞ、あの者がかなりの使い手だとしても一人に任せて見物していたなど、エデン王国騎士団の名が廃る!」
ライアンはそう言うと、数十人の配下を引き連れ丘を下って和士の下へと馬を走らせた。
◆◆◆ 大半の敵を蹴散らし、セイレーンの下まで バックジャンプで戻る。ふっ、と呼吸を整えてから恐らくこの群れを率いているボスモンスターが現れるのを待つ。そのとき吸い込んだ空気に妙な臭いがすることに気付いた。斬り裂いて弾き飛ばしたゴブリン共の死体が消えていない。臓腑をぶち蒔き、斬り飛ばした胴体や手足からは血が流れている。血の臭いと炎で肉が焦げた臭い。これまでのVR体験、VAOでは感じたことがなかった感覚である。青と白のデザインの冒険者装備にも無数の返り血がかかっている。それに、皮膚に当たる熱も冷たさも、痛いほどリアルだ。「何だ、これ……? いつもはエフェクトで消えるのに……」
「何ってー、御主人が斬った敵の返り血ですよ? うわー、臭い」
「……返り血?」
セイレーンはさも当然という様な反応を示している。これは自分がおかしいのか、それともいつの間にか妙なアップデートでもされたのだろうか? どの道このままではあまり気分が良くない。サラマンダーとアイスリザードを手前まで下がらせる。考えるのは後に回そう、そう切り替えて呼吸を整える。
「これは……、どうなっているんだ?」
背後からエデン王国の黄金の獅子の紋章を掲げた騎馬に乗った騎士団が到着した。団長らしき大柄な男が馬から降りて和士の方へ歩み寄って来た。敵意を感じないため、召喚獣達は大人しく待機している。
「ああ、すまない。俺はエデン王国騎士団副団長のライアンってものだ。討伐任務をこなしに来たら、こんな少女が一人で戦ってるときたもんだ。しかし、よくここまでやったな……」
騎士団ということは
色々と腑に落ちないことがあるが、先ずはここから出現するボスモンスターの討伐が先である。
「召喚獣達の御陰だよ、俺一人だともっと梃子摺ってた。そんなことより、ここからが本番だ。ボスが出て来るぞ」
和士の一言によって騎士団に緊張が走る。全員下馬し、ライアンの後ろに隊列を組んだ。準備は万端ということだろう。だが、この騎士団のステータスが見えない。もしかしてバグだろうか? そんなことを考えている和士の眼前に10mはある羽を生やした黒い魔物が跳躍して来た。両手に巨大な漆黒の鎌を装備し、両側頭部から上向きの太い角が伸びた異形の姿。全身にも頑丈そうな鎧を纏っている。
「悪魔……! 間違いない、こいつは悪魔だ。しかもかなり上級の……」
「あ、悪魔だって?! ゴブリンを率いているのは普通ロードとかキングゴブリン程度だろ!? 何だってこんなところに……!?」
ライアンの驚きは当然の反応である。VAOで悪魔と言えば、上級ダンジョンやクエストのボスモンスターが定番である。こんな場所に出現していい魔物ではない。しかも複数人で連携して戦うランクの怪物である。
「出ちゃった以上仕方ない。アンタ達は下がっていてくれ、俺と召喚獣達でやる」
腰が引けた以上は戦いの場に出すのは危険過ぎる。例えNPCでも目の前で死なれては目覚めが悪い。和士の指示で後方へと退避した騎士団を確認してから、悪魔へと向き直る。
「あれだけいたゴブリン共が、全く使えぬな。初めから我一人が出て来ていれば人間の掃討など造作もないというのに。カカカカッ! 小娘、余計な真似をしてくれたな! 貴様から血祭りにしてやる!」
喋った——!?
悪魔が嗤い、鎌を構えた瞬間、和士の背筋に冷たい汗が伝った。これはイベントじゃない。演算では説明できない“存在感”がある。妙だ。この悪魔も所詮は魔物というNPCのはず。その割によく喋る。しかも状況に合った台詞を違和感なく喋るのが更に不気味に感じられる。どこまで大掛かりなアップデートが実施されているのだろうか。しかも再びログインするまで大した時間はなかったはずである。
しかし小娘とは、サブキャラとはいえ丹精込めて作成したのを馬鹿にされるのは嫌な気分になる。
「よく喋るNPCだな。まあ大型アプデが来たんだろ。けど、面白い。上等だ、折角面白いものが見られた礼だ。上級悪魔程度なら一人でぶっ潰してやるよ」
「NPC? とは何だ? 訳の分からぬことを抜かしおって。我の階級を教えてやろう。伯爵だ。さあ恐怖の中で死にゆくがいい!!!」
「歌え、セイレーン。天上より来い、ペガサス! リザード達は俺の剣になれ!」
セイレーンの歌声が響き渡り、和士の能力が大幅に上昇する。サラマンダーが炎の剣にアイスリザードが氷の剣に姿を変える。そして空から白銀のペガサスが舞い降りて来て、嘶くと同時にその身体が光り輝き、白銀の鎧へと姿を変える。
「「な、何だこれはー!?」」
悪魔とライアンの驚く声が同時に鳴り響いた。鎧が和士の身体を軽装の冒険者服の上から覆い、装着される。まるでペガサスそのものが和士の一部になったかと思われるような荘厳な鎧。額から上をカバーするサークレット。左右のショルダーアーマーに両腕のガントレット。胸部と腰回りを頑丈にガードするプレートに、スリットスカートの足元に見えるブーツを覆う様なレッグガード。そして背に展開する純白の翼。デザインも神秘的なものになっている。
さらに剣に姿を変えたリザード達をそれぞれの手に握り締める。騎士団も悪魔も初めて見るその姿に度肝を抜かれていた。
「これが何だと言ったな? これは召喚獣と真に心を通わせた者だけが身に纏うことができる鎧、
「うおおおおおおっ!?」
和士が遥か上空までジャンプし、その勢いのままで急降下。スピードに目が追い付かなかった悪魔の顔面に雷鳴のような衝撃音と共に強烈な左足の蹴りが直撃した。
「
呻き声を上げ、もんどりうって後ろへ吹っ飛ぶ悪魔。地響きと砂塵が舞う。それでも悪魔は立ち上がった。
「おのれ小娘ぇぇぇぇ!!!!!! ならばこの死神の鎌の威力を見せてくれる!」
ガキィイイイイインッ!!!
巨体が放った一閃を、和士は左腕のガントレットの部分だけで受け止めた。そして両手に装備した氷炎の剣を構える。
「くそがっ! だがそんな鈍らなど我が鎌で防いでくれるわあっ!」
鎌を水平に構えて防御姿勢を取った悪魔に、和士は剣を振りかざして跳躍する。
「氷炎剣技・リザード・ファング!」
カッ!
灼熱と凍結の剣閃が上下から悪魔を鎌ごと斬り裂いた。
「か、カカカカカカッ!!! ガハアアアアア!!!」
両断された巨大な悪魔が業火に包まれて燃え尽きたと思われた直後、その全てが凍り付き、次の瞬間には粉々になった。和士は剣を下ろし、息を吐いた。
「終わり……か。いいぞ、お前達。ご苦労だったな、またよろしく頼むよ」
和士の言葉を聞くと、召喚獣達は元の姿に戻り、一鳴きすると星の様にキラキラと輝きながら消えて行った。セイレーンだけがふわりと笑い、「またね、御主人」と言って姿を消した。
「さて……飯行かないと。忍に何を言われるか。悪魔が出て来たのは予想外だったけど、公式に何か情報出てるんだろうか?」
唖然とする騎士団を残したまま、ログアウトのためにステータス画面を開こうとする。
——が、開かない。
「……あれ?」
もう一度試す。反応なし。
メニューも、ログアウトも。どのコマンドも動かない。胸がざわつく。冷たいものが背を伝う。
「まさか——閉じ込められた、とか……?」
風が止み、夕暮れの空が不気味に赤く染まった。
和士の世界は、静かに、現実から断ち切られた。
アリアの部屋を辞したカリナは、重い足取りでカグラと隊員が待つ貴賓室へと戻ってきた。 扉を開けると、そこには既に豪勢な昼食がテーブルいっぱいに並べられていた。アレキサンド名物の肉料理や、彩り豊かな野菜のテリーヌ、そして数種類の果物。カグラは優雅にフォークを動かし、隊員は口の周りをソースで汚しながら夢中で肉にかぶりついている。「おかえりなさい、カリナちゃん。どうだった?」 カグラがグラスを置き、振り返る。その茶色のミディアムヘアがふわりと揺れ、穏やかな表情の中に鋭い知性が光っていた。「こちらは一応、資料から禁忌の術などの解析が終わったわ。恐ろしい術式ばかりだったけれど……今後はこれが悪用されないように、対策を練らないとね」「ああ、お疲れ様。……悪い、私も少し食べるよ」 カリナは空いている席に座り、まだ温かいローストビーフを皿に取り分けた。一口食べ、その旨味に少しだけ心が安らぐのを感じながら、カリナは静かに口を開いた。「彼女は……間違いなく『女神』だ。この世の理の常識を遥かに超える存在だ」 その言葉に、カグラの手が止まる。「何か分かったの?」「ああ。彼女が探している人物は、私である可能性が高い。だが、この世界ではアバターという仮初めの姿が邪魔をして、魂にある目印がはっきり見えなくて、そこまで確証が持てないらしい」 カリナはナイフを握る手に力を込める。「それに……この世界から次元を斬り裂いて脱出することなど簡単だ、とも言っていた。私達が必死に生きているこの世界の理屈など、彼女にとっては取るに足らないことなんだろうな」「次元を斬り裂く……? まるでSF映画ね」「笑えない話だがな。……それと、彼女はその人探しの合間の暇潰しに、このVAOをプレイしていたPCの一人でもあるそうだ」 カリナが告げると、カグラは目を丸くし、やがてクスクスと笑い出した。「ふふっ、あはは! 神様がネトゲをするなんて、ずいぶんと俗っぽいのね。親近感が湧くような、畏れ多いような……」「全くだな。だが、その力は本物だった」 カリナは表情を引き締める。ここからが、アリアから聞いた最も重要な情報だ。この世界が虚構であり、悪魔以上のとんでもない存在が創った実験場であること。それをカグラに伝えようと、口を開きかけた瞬間――。「――っ……ぐぅっ……!」 ドクン
「いらっしゃい、カリナさん。まあ、立ったままではなんですし、掛けたらどうですか?」 アリアは優雅な仕草で、向かいの席を手で示した。テーブルの上には、既に湯気を立てる二つのティーカップ。最高級の茶葉の香りが、部屋の中に満ちている。まるで、カリナがこのタイミングで訪ねてくることを、最初から知っていたかのような準備の良さだった。 カリナは一瞬躊躇したが、意を決して椅子を引き、アリアと対面する形で腰を下ろした。「いただきます」 勧められるままに紅茶を一口含む。渋みがなく、花のような芳醇な香りが鼻腔を抜ける。それは、毒など入っていない、純粋なもてなしの一杯だった。カップをソーサーに戻し、カリナはその碧眼を細めて、目の前の美女――自分と瓜二つの髪色を持つ、違いはカリナの毛先が金髪くらいの、謎の存在を見据えた。「……単刀直入に聞く。あなたは一体、何者なんだ? なぜ私のことを知っている? そして……先ほど言っていた『女神』というのは、本当なのか?」 矢継ぎ早に繰り出された質問に、アリアはカップを口元で傾け、ふふっと楽しげに笑った。「せっかちですねぇ。でも、答えは先ほど言った通りですよ。――女神です」 またしても、はぐらかすような返答。だが、その言葉には嘘の匂いがしない。それどころか、彼女が纏う空気そのものが、人知を超えた何かであることを雄弁に物語っていた。 カリナは深呼吸をし、ずっと胸の内に秘めていた「確信」をぶつけることにした。「……私は以前、ある場所で『真実』の一端に触れた」「ほう?」「『死者の迷宮』の最深部……そこにあった祭壇の鏡だ。私はそこで、現実世界で死に別れたはずの幼馴染――『彩』と再会した」 カリナの脳裏に、あの時の情景が蘇る。鏡の向こうで微笑んでいた、懐かしくも切ない少女の姿。「彼女の髪は、生前のような赤茶色ではなく、透き通るような銀髪に変わっていた。そして彼女は言ったんだ。『女神様に、別の世界に転生させてもらった』と」 アリアの手が、わずかに止まる。「さらに彼女はこうも言っていた。『その女神様が、今、あなたのことを探している』と。……今の私がいるこの世界では因果が正しく回っていないため、私がトラブルに巻き込まれやすくなっているとも教えてくれた」 カリナは畳み掛けるように言葉を続ける。「それだけじゃない。先日、私の
謁見の間には、レオン王の宣言が重々しく響き渡っていた。 一週間後に開催される剣術大会。それは、人類の脅威に対抗するための精鋭を選抜する重要な儀式でもある。しかし、カリナには一つ、どうしても確認しておかなければならない懸念があった。「陛下。剣術大会ということは……まさかとは思いますが、真剣を使う訳ではないのですよね?」 冒険者ギルドの訓練や一般的な模擬戦では、刃引きをした剣や木剣を使うのが通例だ。Aランクの実力者同士が真剣でぶつかり合えば、手加減をしたとしても事故は避けられない。だが、レオン王は鷲のような鋭い瞳でカリナを見据え、短く答えた。「いや、真剣での立ち合いになる」「なっ……真剣、ですか?」 カリナが眉をひそめると、隣に控えていたカグラも扇子で口元を覆い、懸念を示した。「陛下。いくら腕に覚えのある者同士とはいえ、真剣勝負となれば、下手をしたら死傷者が出る恐れがございますわ。未来の戦力を選抜する場で、有望な若者が命を落としては本末転倒では?」「うむ、そなたらの言い分はもっともだ。だが、案ずることはない。それについては、ここにいるアリア殿が、特別な『魔道具』を準備してくれているのだよ」 王の言葉を受け、アリアが一歩前に進み出た。彼女が何もない空中に手をかざすと、誰も見たことがない未知の魔法陣が展開され、そこに闘技場の様子を模した鮮明な立体映像が投影された。「ご心配には及びませんよ。私が開発した、この『身代わりの水晶』があれば、誰も死ぬことはありません」「身代わりの水晶……? ずいぶんと大きいな」 カリナが驚くのも無理はない。投影された映像では、闘技場の舞台の両端に、優に人ひとり分の大きさがある巨大な水晶が設置されていたからだ。「はい。大会には大観衆が押し寄せますから、遠くの客席からでも状態が視認できるよう、このサイズに設計しました」 アリアはカリナ達に向き直り、落ち着いた丁寧な口調で説明を始めた。「これは対象の魔力と生命力をリンクさせる特殊な魔道具なんです。勝負の前に、この水晶に自分の魔力を流して記憶させておけば、戦闘で受けたダメージは全てこの水晶が肩代わりしてくれますよ」 アリアはニッコリと微笑み、続ける。「例えば、腕を斬られたとしましょう。その瞬間、痛みと衝撃は走りますが、肉体には傷一つつきません。代わりに、舞台の端に設
アレキサンドの朝は、澄み切った青空と共に始まった。 石畳を踏みしめる音を響かせながら、カリナ達一行は街の北端に位置する小高い丘を目指す。そこに鎮座するのは、この国の象徴である巨大な王城だ。 近づくにつれ、その威容が露わになる。 エデンの城が近代的な白亜の優美さを誇るなら、この城はまさに「鉄壁」。切り出された巨大な灰色の岩石を積み上げて作られた城壁は、無骨ながらも圧倒的な重厚感を放っている。 城壁には、エデンの「黄金の獅子」とは異なる、この国の国章――『交差する二振りの剣と鉄壁の盾』を描いた旗が翻っている。装飾は最小限に抑えられ、実用性を重視した矢狭間が並ぶ様は、ここが武を尊ぶ騎士の国であることを無言のうちに物語っていた。「へぇ、近くで見ると迫力が違うわね。飾り気はないけれど、そこがいいわ」 カグラが城壁を見上げ、感心したように扇子を揺らす。やがて、巨大な鉄格子の城門の前に到着した。「止まれ! 何用か!」 屈強な鎧に身を包んだ門番達が、鋭い眼光と共に槍を交差させる。カリナは一歩前に出ると、懐から先日カシューに託された招待状と、自身のAランク冒険者カードを取り出した。「エデン国王カシュー陛下の使いで参りました、冒険者のカリナです。レオン・アレキサンド国王陛下より、招きを受けております」 続いてカグラも、流れるような所作で自身のカードを提示する。「同じく、エデン筆頭相克術士のカグラよ。同行者として許可を頂いているわ」 門番は招待状の封蝋にある王家の紋章と、二人のカードを確認すると、即座に姿勢を正した。槍を引き、ガシャンと音を立てて踵を揃える。「はっ! 失礼致しました! カリナ様、カグラ様ですね。陛下よりお話は伺っております。どうぞ、中へ!」 重々しい音と共に城門が開かれる。 一歩足を踏み入れると、そこは静謐な空気に包まれていた。城内もまた、質実剛健な造りだった。磨き上げられた石の床、壁には歴代の戦いを描いたタペストリーや、交差した剣と盾の紋章が飾られている。 煌びやかなシャンデリアの代わりに、魔法石を埋め込んだ鉄製の燭台が通路を照らし、すれ違う騎士達は皆、規律正しく黙礼して通り過ぎていく。「エデンとはまた違った緊張感があるにゃ……。おいら、背筋が伸びるにゃ」 ケット・シー隊員が、シルクハットの位置を直
エデンを出発してから数時間。 ガルーダの背に揺られ、適度な休憩を挟みながら空の旅を続けていた一行の視界に、夕闇に染まり始めた壮大な石造りの街並みが見えてきた。「見えてきたぞ。あれが騎士国アレキサンドだ」 カリナが指差す先には、湖畔に広がる堅牢な城塞都市があった。エデンのような近代的な魔導都市とは趣が異なり、質実剛健な石造りの建物が整然と並ぶ、まさに「騎士の国」と呼ぶに相応しい景観だ。 そして街の北側、少し小高い丘の上には、街を見下ろすように巨大な王城が鎮座している。夕日を反射して輝くその威容は、大陸の中心国家としての威厳を放っていた。「へぇ、立派なものね。質実剛健、武骨だけど美しいわ」 カグラが扇子で口元を隠しながら感心する。「到着にゃ! お腹空いたにゃー!」 ケット・シー隊員が身を乗り出す中、カリナはガルーダに指示を出し、城下の南門前にある広場へと降下を開始した。 ズズーンッ……! 巨大な黄金の鳥が舞い降り、風圧と共に着地すると、南門を守っていた衛兵達が槍を構えて大騒ぎになった。「な、なんだあの怪鳥は!? 敵襲か!?」「ま、待て! 背中に人が乗っているぞ!」 騒然とする衛兵達の前に、ガルーダが翼を収め、カリナ達が降り立つ。カリナはガルーダを送還すると、警戒する衛兵達の前へと歩み出た。「怪しいものじゃない。私は冒険者のカリナ。エデンのカシュー国王の使いで、レオン・アレキサンド国王陛下に招かれて来たんだ」「ぼ、冒険者だと……? だが、今の巨大な鳥は……」 衛兵隊長らしき男が困惑していると、カグラが優雅に歩み寄り、艶やかな笑みを浮かべた。「あらあら、驚かせてごめんなさいね。この子は私の妹分で、凄腕の召喚術士なのよ。ほら、これが身分証よ」 カグラに促され、カリナは懐から冒険者の組合カードを提示した。そしてカグラもまた、自身のカードを取り出して提示する。カリナのカードには、燦然と輝く『Aランク』の刻印と、『カリナ』の名が刻まれている。 隊長がカードを受け取り、その名前を確認した瞬間、彼の目が驚愕に見開かれた。「カ、カリナ……? まさか、あの『ザラーの街』を襲った悪魔と魔物の大軍を、たった一人で殲滅したという……あの英雄か!?」 その言葉に、周囲の衛兵達もざわめき立つ。ザラーの街の防衛戦は、アレキサンド国内でも今伝説として語
カシュー達との会談を終え、出発は明日ということが決まった。その場は解散となり、カリナはエデン王城の居住区にある自室へと戻ってきた。 近代的なセキュリティシステムが導入されているエデン王城。カリナは懐からカードキーを取り出し、リーダーにかざす。ピッ、という電子音と共にロックが解除され、重厚な扉が静かにスライドした。「おかえりなさいませ、カリナ様」 部屋に入ると、すぐに柔らかい声が出迎えてくれた。妖精族の側付、ルナフレアだ。彼女はいつものように慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、カリナの上着を受け取るために歩み寄ってくる。「ただいま、ルナフレア。すまないが、また少し忙しくなりそうだ」 カリナが申し訳なさそうに告げると、ルナフレアは小首を傾げた。「何かございましたか?」「ああ。明日からまた、旅に出ることになった。行き先は北の隣国、騎士国アレキサンドだ」 その言葉を聞いた瞬間、ルナフレアの表情が曇る。美しい翠眼に、心配の色が滲んだ。「明日、ですか……? カリナ様、つい昨日まであんなにお苦しみだったのですよ? 初潮が明けたばかりのお体で、またすぐに旅だなんて……」 彼女はカリナの手をそっと包み込む。その手は温かく、カリナの体調を何よりも案じていることが伝わってきた。この一週間、つきっきりで看病してくれた彼女だからこそ、その心配は深い。カリナは安心させるように、握られた手に自分のもう片方の手を重ねた。「心配してくれてありがとう。でも、もう大丈夫だ。お前の献身的な看病のおかげで、体調は万全だよ。痛みも嘘みたいに引いたしな」 カリナは努めて明るく振る舞い、笑顔を見せる。「それに、今回は戦いがメインじゃない。騎士国アレキサンドの国王に会って、友好を深めるのが主な目的だ。あとは……まあ、ちょっとした剣術大会に参加するくらいだ。危険な任務じゃないし、用が済めばすぐに戻るよ。……それに、今回はカグラも一緒だ」「カグラ様も、ご一緒なのですか?」「ああ。彼女がついてきてくれる。だから何かあっても大丈夫だ」 カグラの名前が出た途端、ルナフレアの表情がふっと緩んだ。「そうですか……。カグラ様がご一緒なら、安心ですね。あの方の実力は私もよく存じておりますし、何よりカリナ様をとても大切に思っていらっしゃいますから」 ルナフレアは安堵の息を漏らし、改めてカリナを見つめた。