Masuk
今や、誰もが満員電車に揺られる必要はない。国が支給する専用のVR端末とネット環境さえあれば、学校も職場も、すべて仮想空間の中に存在する。
授業も会議もログインひとつ。人々は通勤の苦痛から解放され、タイムパフォーマンスという言葉が新たな価値になった。
もちろん、いいことばかりではない。交通機関の利用者は激減し、現実の商業施設や観光業は軒並み打撃を受けた。
それでも、誰もこの便利さを手放せなかった。——現実(リアル)なんて、ログインすれば事足りる。
そうした新時代を、誰よりも自然に受け入れている青年がいた。現在大学生活を謳歌する、
朝起きて端末を装着し、仮想キャンパスにログイン。授業を受け、サークルの仲間たちと会話し、放課後には少しゲームをする。
実際に外へ出るのは、アルバイトかスポーツをするときくらいだった。だからこそ、現実の空気を吸うたびに「懐かしい」と思う。VRの生活が当たり前になりすぎていた。
——いや、もしかしたら、彼にとって現実のほうが“逃避”だったのかもしれない。
和士には、忘れられない過去がある。
幼いころは海外で育ち、父は一流のサッカー選手だった。しかし、突然の事故で父を失い、母と共に日本へ帰国。その母も心の傷から立ち直れず、早くに亡くなってしまった。
それでも和士は、父の背中を追ってサッカーに打ち込み続けた。ユース日本代表に選ばれるほどの有望株。
けれど——試合中の事故で膝と足首を壊した。
何度も手術を受けたが、元の動きは戻らなかった。夢は潰えた。十代の終わりにして、世界から取り残されたような気分になった。
そんな和士を救ったのが、友人の一言だった。
「まあ、息抜きだと思ってやってみろよ。面白いからさ」
そう言われて始めたのが、ファンタジーVRMMORPG、
最初はただの暇つぶしだった。
だが、初めて体験する“もう一つの現実”は、あまりにも鮮烈だった。
広大な世界、美しい景色、そして数えきれないほどの冒険者たち。
和士は夢中になった。サッカーで失った「戦う感覚」を、再び手に入れた気がした。VAOが、正しくVividな鮮やかで、Arcadiaの楽園のような体験をOnlineで和士に提供してくれたのである。
学業はしっかりと好成績で修めていたので、志望校への合格は問題なかった。それ以外の時間、これまでの怪我で夢破れた鬱屈とした気分を晴らす様にVAOの世界にのめり込んだ。サッカー以外で夢中になったのはこれが初めてだった和士が廃人の様にネトゲにはまるのは仕方なかったのかもしれない。フルダイヴの中で自由に動けて自由な目的を目指すプレイが和士には実に充足感に満ちていたのである。数年でトップランカーにまで肩を並べるほどにやり込んだ。
だがVAOにはこれまでのVRMMOにはない、独特のシステムがあった。通常はレベルを上げて行けばスキルやアビリティなど、スキルポイント等を振り分けて職業ごとに見合った能力が手に入るのだが、VAOにはこれといった定番のシステムが存在しないのである。特定の条件を満たさなければ、スキルやアビリティが入手不可能なのである。そのため、多くのプレイヤーがオリジナリティを求めて独自の育成を試していった。
その独特、いわば尖りすぎているシステムが良くも悪くも話題になり、スキル取得に成功した先達らによってSNSや攻略サイトは盛り上がりを見せた。和士もそれらに夢中になっていた時期があったが、独自のプレイスタイルを構築してからは、偶にしか目を通すことはなくなった。先人たちの通った道をなぞるのでは面白くないという思いが、彼の中では大きくなってきたのである。
彼が最初進めていた職業はいわば
VAOには広大なオープンフィールドがあり、1プレイヤーが国家を創設することもできる。莫大な資金や国民となってくれるプレイヤー達の支持が必要になるが、不可能ではない。国営が上手くいけば資金も莫大になるし、どこかの国に所属したいというプレイヤー達が集まり、勢力も大きくなる。他国と戦争というPvP対決をすることもできるようになり、勝利すれば得られる領地や互いが最初に賭けた資金も総取りでき、旨味があるのである。MMOが最終的にはPvPに行き着くのはある意味仕方がないのかもしれない。
ゲーム内の友人カシューが創設した国は<エデン>。Arcadiaという桃源郷の中に<至上の楽園>を創るとはいかなるネーミングセンスであろうかと当時の和士は思ったものだが、目立つことで散々戦争というPvPに巻き込まれて美味しい思いをしたので、今では悪くないと思っている。いや、むしろ愛着すらある。荒んでいた頃と比べれば、不健康かもしれないが、VAOの中での体験は和士にとって掛け替えのないとまではいかないまでも、大事なものになっていた。あの頃の彼は、現実の痛みを忘れ、ただ純粋に楽しんでいたのだ。
エデンが落ち着いてからは、他の遊び方も模索しようと思い、サブキャラを作成することにした。聖騎士然としたカーズというキャラがある意味理想的な筋骨隆々な自分なら、真逆なものを創ってみようということになり、どうせVRの中だけだからということで女性キャラを創ってみるのもいいかもしれないと思い、かなり細かいキャラ造形まで可能な安い課金アイテムをアルバイト代で賄って、細部にまでこだわって作成した。
今回は比較的身軽な装備で進めようと思い、片手剣と刀、魔法も習得して魔法剣士の様な感覚で育成した。それでもイマイチ何かが足りないなと思っていた頃、召喚魔法のアップデートが行われた。召喚獣を使役して戦わせるというスタイルだった。育成に行き詰まっていたところに思いもよらないアップデート、しかもVAOは普段ほとんどアップデートがないので、乗るしかないと和士は思った。そうして育成は進み、かなりの強キャラの作成に成功したのだった。
「ナギ兄ちゃん、もうすぐ晩御飯だよー」
従妹の
「ああ、うん、もうちょいしたら行くよ。ありがとう、ばあちゃんにすぐ行くって言っておいて」
「まーたゲームやってる。へー、ふーん、そういうのがナギ兄ちゃんの好みの女の子なんだ? はー、そりゃそんなVRにいるみたいな美人いないもんねー、そりゃ恋人の一人も作らない訳だわ。好意を持ってる子達可哀想にー」
PC画面を覗き込んで、キャラクター選択画面にいる女性キャラを見ながら忍が不躾なことを言った。
「おい、勝手に見るなよ。って誰だよ、好意持ってる人なんかどこにいるんだよ?」
和士は数年前に幼馴染の恐らく片思いだった女の子を病気で亡くしている。それ以来どうもその手の話が苦手になっていた。でもいつかは折り合いを付けないといけないとは思っていた。しかし、和士はどうしようもない程恋愛事情に疎い。好意を向けられても気付かずに華麗にスルーすることが多々あった。
「さあねー、誰でしょうか? もしかしたら近くにいるかもしれないよー。じゃあ、早く降りて来なよー」
忍は思わせ振りなことを言いながら、部屋から出て行った。階段を降りる足音が遠ざかる。
「身近な人? 余計わからん。あ、やり忘れたクエがある。サクッとやってから行くか、腹も減ったし」
もう一度VRサークレットを装着し、ログインコマンドを唱える。
「Connection——on!」
次の瞬間、視界が真っ白に染まり、意識が落ちた。
◆◆◆ 視界が光に包まれたあと、和士の身体はふっと浮いた。——ログイン、完了。
風と足元の草の感触。いつものフィールドだ。
エデンの都から南に数キロ進んだところにある平原。この夕暮れの時間帯になると緑色の皮膚をした小鬼、いわゆるゴブリンが爆湧きする。低レベルのモンスターだが、この時間制限クエストの報酬はなかなかに美味しい。早速南からゴブリンの大軍が押し寄せて来る。しかし、普段ならこの報酬狙いで来ている他の
「珍しいな。ここ、いつも混んでるのに」
妙だなと思いながらも、目前に迫ったゴブリンの群れに向かって駆け出す。和士は左利きのため、腰の右にある鞘から左手で刀を抜刀、刃が夕日を受けて光る。そうして次々と斬り伏せていく。
「誰も来ないってことは総取りだな。やったぜ」
刀を一振りするたびに何匹ものゴブリンを斬り裂く。草を踏みしめる音、金属がぶつかる感触。手応えが、やけにリアルだ。だがいつもなら他のPC達が多く集まるため、取り囲まれることなどないのだが、今回はソロのため、あまりにも多勢に無勢が過ぎて切りがない。
「仕方ない、奥の手を使うか」
敵陣から後ろへ跳び、右手に魔力を集中させる。
「舞い踊れ火炎よ、
グギャアアアアアアアアアアア!!!
炎の渦が大地を焼く。
ゴブリン達の悲鳴が重なり、空気が震えた。放たれた炎の舞によって前進するゴブリン共は焼き払われたが、屍を諸共にせずに次々に敵の波が押し寄せて来る。
「まいったな、湧きすぎだ。召喚で押し切る!」
低レベルとはいえ、これは少し骨が折れると感じた和士は両手を広げ詠唱、召喚魔法を発動させる。
「さあ力を示せ、出でよ、
グルウウウウウウウゥ!!! ガアアアアアアアアァ!!!
和士の前方に展開された魔法陣から、全身に炎を纏い業火を噴き出すサラマンダーと周囲を凍てつかせる凍気を纏った氷で形作られたかの様なアイスリザードが召喚され、吐き出した炎と氷のブレスが敵陣を蹂躙する。更に味方戦力の能力を向上させるために、蠱惑的な衣装を身に纏った背中に翼が生えた
「お呼びですか、御主人? なるほど、ゴブリンの群れですね。ならば士気を高めるために歌いましょう」
「話が早くて助かる」
セイレーンの透き通る歌声が響き渡り、召喚獣と和士の能力が底上げされ身体が軽くなる。サラマンダーの炎は赤々と燃え、アイスリザードのブレスは鋭さを増した。
完璧だ。それでも本来なら複数人で挑むクエストのため、ゴブリンの数はまだまだ多い。セイレーンを後ろに下がらせてから、和士は再び剣を取って敵陣に飛び込んだ。
◆◆◆ 和士と召喚獣達がゴブリンの大軍を圧倒していたとき、エデン王国からゴブリン討伐の任務を負った騎士達が遅れて平原を見下ろせる小高い丘の上に集結していた。彼らはそこから、たった一人でゴブリンの大軍を圧倒する何者かがいることを発見する。斥候に向かっていた兵士が、軍の隊長格の男に話しかけた。「ライアン副隊長、状況ですが……」
「見ればわかる、何者だあれは? たった一人であの数のゴブリンを蹴散らすとは……。しかも連れているのは召喚獣なのか? しかも同時に3体も使役しているとは」
彼らは騎士である。国、エデン王国という母国の為ならば喜んで殉じる覚悟がある。だが、それでもあの業火と吹雪の吹き荒れる中に割って入っていくのは恐怖だと感じていた。それでも、どう見ても小柄な一人の戦士に全てを任せてここから高見の見物をすることなど、彼らの矜持が許せなかった。
「行くぞ、あの者がかなりの使い手だとしても一人に任せて見物していたなど、エデン王国騎士団の名が廃る!」
ライアンはそう言うと、数十人の配下を引き連れ丘を下って和士の下へと馬を走らせた。
◆◆◆ 大半の敵を蹴散らし、セイレーンの下まで バックジャンプで戻る。ふっ、と呼吸を整えてから恐らくこの群れを率いているボスモンスターが現れるのを待つ。そのとき吸い込んだ空気に妙な臭いがすることに気付いた。斬り裂いて弾き飛ばしたゴブリン共の死体が消えていない。臓腑をぶち蒔き、斬り飛ばした胴体や手足からは血が流れている。血の臭いと炎で肉が焦げた臭い。これまでのVR体験、VAOでは感じたことがなかった感覚である。青と白のデザインの冒険者装備にも無数の返り血がかかっている。それに、皮膚に当たる熱も冷たさも、痛いほどリアルだ。「何だ、これ……? いつもはエフェクトで消えるのに……」
「何ってー、御主人が斬った敵の返り血ですよ? うわー、臭い」
「……返り血?」
セイレーンはさも当然という様な反応を示している。これは自分がおかしいのか、それともいつの間にか妙なアップデートでもされたのだろうか? どの道このままではあまり気分が良くない。サラマンダーとアイスリザードを手前まで下がらせる。考えるのは後に回そう、そう切り替えて呼吸を整える。
「これは……、どうなっているんだ?」
背後からエデン王国の黄金の獅子の紋章を掲げた騎馬に乗った騎士団が到着した。団長らしき大柄な男が馬から降りて和士の方へ歩み寄って来た。敵意を感じないため、召喚獣達は大人しく待機している。
「ああ、すまない。俺はエデン王国騎士団副団長のライアンってものだ。討伐任務をこなしに来たら、こんな少女が一人で戦ってるときたもんだ。しかし、よくここまでやったな……」
騎士団ということは
色々と腑に落ちないことがあるが、先ずはここから出現するボスモンスターの討伐が先である。
「召喚獣達の御陰だよ、俺一人だともっと梃子摺ってた。そんなことより、ここからが本番だ。ボスが出て来るぞ」
和士の一言によって騎士団に緊張が走る。全員下馬し、ライアンの後ろに隊列を組んだ。準備は万端ということだろう。だが、この騎士団のステータスが見えない。もしかしてバグだろうか? そんなことを考えている和士の眼前に10mはある羽を生やした黒い魔物が跳躍して来た。両手に巨大な漆黒の鎌を装備し、両側頭部から上向きの太い角が伸びた異形の姿。全身にも頑丈そうな鎧を纏っている。
「悪魔……! 間違いない、こいつは悪魔だ。しかもかなり上級の……」
「あ、悪魔だって?! ゴブリンを率いているのは普通ロードとかキングゴブリン程度だろ!? 何だってこんなところに……!?」
ライアンの驚きは当然の反応である。VAOで悪魔と言えば、上級ダンジョンやクエストのボスモンスターが定番である。こんな場所に出現していい魔物ではない。しかも複数人で連携して戦うランクの怪物である。
「出ちゃった以上仕方ない。アンタ達は下がっていてくれ、俺と召喚獣達でやる」
腰が引けた以上は戦いの場に出すのは危険過ぎる。例えNPCでも目の前で死なれては目覚めが悪い。和士の指示で後方へと退避した騎士団を確認してから、悪魔へと向き直る。
「あれだけいたゴブリン共が、全く使えぬな。初めから我一人が出て来ていれば人間の掃討など造作もないというのに。カカカカッ! 小娘、余計な真似をしてくれたな! 貴様から血祭りにしてやる!」
喋った——!?
悪魔が嗤い、鎌を構えた瞬間、和士の背筋に冷たい汗が伝った。これはイベントじゃない。演算では説明できない“存在感”がある。妙だ。この悪魔も所詮は魔物というNPCのはず。その割によく喋る。しかも状況に合った台詞を違和感なく喋るのが更に不気味に感じられる。どこまで大掛かりなアップデートが実施されているのだろうか。しかも再びログインするまで大した時間はなかったはずである。
しかし小娘とは、サブキャラとはいえ丹精込めて作成したのを馬鹿にされるのは嫌な気分になる。
「よく喋るNPCだな。まあ大型アプデが来たんだろ。けど、面白い。上等だ、折角面白いものが見られた礼だ。上級悪魔程度なら一人でぶっ潰してやるよ」
「NPC? とは何だ? 訳の分からぬことを抜かしおって。我の階級を教えてやろう。伯爵だ。さあ恐怖の中で死にゆくがいい!!!」
「歌え、セイレーン。天上より来い、ペガサス! リザード達は俺の剣になれ!」
セイレーンの歌声が響き渡り、和士の能力が大幅に上昇する。サラマンダーが炎の剣にアイスリザードが氷の剣に姿を変える。そして空から白銀のペガサスが舞い降りて来て、嘶くと同時にその身体が光り輝き、白銀の鎧へと姿を変える。
「「な、何だこれはー!?」」
悪魔とライアンの驚く声が同時に鳴り響いた。鎧が和士の身体を軽装の冒険者服の上から覆い、装着される。まるでペガサスそのものが和士の一部になったかと思われるような荘厳な鎧。額から上をカバーするサークレット。左右のショルダーアーマーに両腕のガントレット。胸部と腰回りを頑丈にガードするプレートに、スリットスカートの足元に見えるブーツを覆う様なレッグガード。そして背に展開する純白の翼。デザインも神秘的なものになっている。
さらに剣に姿を変えたリザード達をそれぞれの手に握り締める。騎士団も悪魔も初めて見るその姿に度肝を抜かれていた。
「これが何だと言ったな? これは召喚獣と真に心を通わせた者だけが身に纏うことができる鎧、
「うおおおおおおっ!?」
和士が遥か上空までジャンプし、その勢いのままで急降下。スピードに目が追い付かなかった悪魔の顔面に雷鳴のような衝撃音と共に強烈な左足の蹴りが直撃した。
「
呻き声を上げ、もんどりうって後ろへ吹っ飛ぶ悪魔。地響きと砂塵が舞う。それでも悪魔は立ち上がった。
「おのれ小娘ぇぇぇぇ!!!!!! ならばこの死神の鎌の威力を見せてくれる!」
ガキィイイイイインッ!!!
巨体が放った一閃を、和士は左腕のガントレットの部分だけで受け止めた。そして両手に装備した氷炎の剣を構える。
「くそがっ! だがそんな鈍らなど我が鎌で防いでくれるわあっ!」
鎌を水平に構えて防御姿勢を取った悪魔に、和士は剣を振りかざして跳躍する。
「氷炎剣技・リザード・ファング!」
カッ!
灼熱と凍結の剣閃が上下から悪魔を鎌ごと斬り裂いた。
「か、カカカカカカッ!!! ガハアアアアア!!!」
両断された巨大な悪魔が業火に包まれて燃え尽きたと思われた直後、その全てが凍り付き、次の瞬間には粉々になった。和士は剣を下ろし、息を吐いた。
「終わり……か。いいぞ、お前達。ご苦労だったな、またよろしく頼むよ」
和士の言葉を聞くと、召喚獣達は元の姿に戻り、一鳴きすると星の様にキラキラと輝きながら消えて行った。セイレーンだけがふわりと笑い、「またね、御主人」と言って姿を消した。
「さて……飯行かないと。忍に何を言われるか。悪魔が出て来たのは予想外だったけど、公式に何か情報出てるんだろうか?」
唖然とする騎士団を残したまま、ログアウトのためにステータス画面を開こうとする。
——が、開かない。
「……あれ?」
もう一度試す。反応なし。
メニューも、ログアウトも。どのコマンドも動かない。胸がざわつく。冷たいものが背を伝う。
「まさか——閉じ込められた、とか……?」
風が止み、夕暮れの空が不気味に赤く染まった。
和士の世界は、静かに、現実から断ち切られた。
疲労で仰向けに倒れ込んだカリナは、まだ明るい空を見上げていた。VAOがゲームのときは、その中で身体を動かしても、実際には現実の身体を動かしてはいない。そのため、長時間のプレイで精神的に疲れることがあっても肉体に疲労感を感じることなどなかった。しかし、今のこの世界は現実世界と何ら変わりない。身体に感じる疲労感がそのことを物語っていた。「長時間の戦闘には気を付けないといけないな……」 攻撃を躱す時に擦り減る神経。接触した際に響く衝撃。敵を斬り裂き、殴り飛ばすときに感じるリアルな感触。どれもが僅かだが、少しずつ疲労を蓄積させる。ゲーム内でのステータスは見えないが、これまでに鍛え抜いたものがあるだけに、現実世界で急激な運動をしたとき程の負担がある訳ではないが、ある程度の自分の限界は見定めておくべきだと思うのだった。 深呼吸をしてから、ゆっくりと立ち上がる。身に纏っていた聖衣が解除され、ペガサスの姿に戻る。同時に二対の黄金の剣に姿を変えていた蟹のプレセペも元の姿に戻った。「ご苦労だったなお前達、また力を貸してくれ」 ペガサスの頭と巨大な蟹の背中を撫でる。「所詮は伯爵レベルよな。我の力があれば主も余裕であっただろう。では次の機会を楽しみにしているぞ」 大口を叩く巨蟹のプレセペ。二体の召喚獣は光の粒子に包まれて消えていった。その光が空へ向けて霧散していくのを見守っていると、魔物の討伐を終えたワルキューレの姉妹達が、カリナの下へ集結して来た。「主様、討伐完了致しました。目に着いた怪我人も我々が治療しておきました。燃えていた建物も、ミストの水魔法で消火済みです」 その場に跪いたヒルダが報告する。「そうか、よくやってくれた。感謝する。ありがとう。お前達の御陰で被害は少なくて済んだみたいだな」「私達を即座に現場に送り込んだ主様の判断の御陰ですよ。私達は任務を熟したに過ぎません」 黒髪のロングヘアが美しいカーラが答える。「それに私達にはそれぞれ得意な属性があります。それを上手く分担したまでですよ」 金髪のエイルが胸を張った。 ワルキューレまたはヴァルキュリャ、ヴァルキリー「戦死者を選ぶもの」の意は、北欧神話において、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性、及びその軍団のことである。 北欧神話において、ワルキューレは多数存在する。みな女性
悪魔が炎によって燃え尽きたのを見届けると、カリナはカシューに連絡を取った。「聞こえていたか、カシュー?」「うん、どうやら色々と考察する余地がありそうだね」 イヤホンの向こうから、真剣なカシューの声が聞こえる。「先ずは奴の言っていたことが気にかかる。近くの街はチェスターだ。情報通りならそこに悪魔が向かっていることになる。私は急いで戻る。そっちからも援軍を出してくれないか?」「わかった、戦車部隊に戦力を乗せて全速力で向かわせるよ。それなりの距離だから間に合うか微妙だけどね」「頼んだ。とりあえず一旦切るぞ」「了解、また何かあればよろしく」 カシューの返答を聞いてから、左耳のイヤホンに注いでいた魔力を切った。急いで街に戻らなければならない。意識を切り替えて、真眼と魔眼の効果を解除した。聖衣が身体から外れて、黄金の獅子のカイザーの姿へと戻る。「お見事でした、我が主よ」「いや、お前の力がなければ危なかったよ。ありがとう、また呼んだときは頼んだぞ。ゆっくり休んでくれ」 光の粒子になってカイザーは消えていった。そして湖の中から自動回復した黒騎士達が戻って来た。ヤコフの両親を運ぶのはこの騎士達に任せるとするかと考えていたとき、背後からシルバーウイングの面々が押しかけて来た。「やったな、まさか本当に悪魔を斃してしまうとは」「ああ、すげーぜ! こっちまで興奮してきた」 アベルとロックは単独で悪魔を撃破した少女に称賛の言葉を贈る。「ええ、召喚術ってすごいのね。しかもあの召喚獣を身に纏う戦い方なんて初めて目にしたわ」「しかも結局格闘術だけで押し切ってしまいましたね。魔法剣を使うまでもなかったということでしょうか?」 エリアとセリナも興奮が抑えきれないのか、矢継ぎ早に話しかけて来る。「あれは聖衣という召喚獣の力をその身に纏う鉄壁の鎧だ。あらゆる能力が著しく向上する私の奥の手だよ。召喚獣との信頼関係がないと身に纏うことはできないけどな」 剣を使わなかったのは、格闘術だけでどこまでやれるかという実験でもあった。生身の拳では致命傷は与えられなかったが、それなりに戦えることがわかっただけでも、カリナにとっては大きな収穫になった。「そうだ、ヤコフの両親の容態はどうなってる?」「出来る限りの治療はしたから一命は取り留めたわ。でもまだ意識
カリナの格闘術の一撃で怯んだ悪魔侯爵イペス・ヘッジナだったが、すぐさま体勢を立て直し、身体から黒い炎を撒き散らしながらカリナへと突進して来た。「おのれ、小娘がっ!」 振るった大鎌が空を斬る。カリナは大振りな悪魔の攻撃に意識を集中させ、瞬歩で即座に距離を取る。そこに生まれた一瞬の隙の間に懐に飛び込み、右拳での一撃をどてっ腹の中心部に撃ち込んだ。格闘術、烈衝拳。土属性の魔力を纏った、まるで鋼鉄の様に硬化された拳の一撃。悪魔の赤黒い鎧に僅かに亀裂が走る。 カリナは召喚術が実装されるまでは基本的に剣術と格闘術を中心に熟練度を上げていた。そこへ剣技の威力を上げるために魔法を習得した。魔法剣の習得は魔力の底上げとなった。それの副次効果で、魔力を帯びた特殊な格闘術の技能も全般的に威力を向上させることに成功したのである。「がはっ、何だ……? この威力は?!」「だから言っただろう。小突いただけだとな」「小癪なっ!」 力任せの大振りの鎌を瞬歩を使用して紙一重で躱す。そのまま一気に巨体の股の下を潜り抜けて後ろを取ると、背後から風の魔力を纏った左脚での回し蹴りを見舞った。格闘術、烈風脚。悪魔の背にある翼の付け根に繰り出した蹴りが撃ち込まれる。「がああっ!」 竜巻の如き強烈な蹴りに悪魔は仰け反るが、すぐさま持ち直し、黒炎を撒き散らしながら突進して来る。 イペスの攻撃は大振りで読み易いということを既にカリナは見抜いている。しかし、それでもその巨体から繰り出される攻撃は異常な破壊力を秘めており、一撃でもまともに喰らえばかなりのダメージを負うだろう。最悪骨の数本は持っていかれる。一撃も貰うわけにはいかない。スレスレで回避する度に神経が擦り減っていく。「があああっ!」 上段から大鎌を振り被った渾身の一撃を敢えて前方に踏み込み、懐に入るようにして躱す。そのまま空振りをした硬直状態の悪魔の身体を駆け上がり、眼前で左拳を振り被る。「格闘術、紅蓮爆炎拳!」 ドゴオオオオオオッ!!! 炎の魔力を纏った高熱の拳が炸裂すると同時に頭全体を巻き込んで爆発した。衝撃で痺れる拳の代わりに、悪魔は後方へと後退る。「ぐはあああああっ!」 それでもまだこの悪魔侯爵は倒れない。やはり高位の悪魔だけあって相当に打たれ強く頑強であ
「あ、戻って来た。カリナちゃーん!」 死者の間の祭壇から帰還して来るカリナを見つけたエリアは、カリナの方へ向かって手を振った。「もう用事は済んだのか?」 ロックは口に何かを入れた状態で、手にはサンドイッチが乗せられている。「ああ、一応な。ってなんだ、食事中だったのか」 持ち込んだ食材をセリナとアベルが料理している。それをヤコフを含めた他の面々が食べているところだった。エリアもアイテムボックスから次の食材を取り出しているところだった。NPCであっても冒険者はアイテムボックスを使うことができるのかということをカリナは初めて知った。 確かにこの迷宮に挑むとき、彼らは大した荷物を持っていなかった。それはこういうことだったのかとカリナは得心した。「食事は簡単なものだが、一応拘ってやっているんだ。冒険中には腹が空くこともある。食べるってのは活力を回復させるのには一番だからな」「そういうこと。まあそんなに手の込んだ料理は作れないけどね」 アベルとセリナは起こした火の上で薄い肉や野菜を焼いて、それをパンに挟んでいる。最初にロックが手にしていたのはこれだったのかとカリナは知った。そう言えば、もう迷宮に入ってそれなりの時間が経つ。昼を回っている頃だ。カリナは自分も多少小腹が空いていることに気付かされた。「ほら、カリナ嬢ちゃんも食べな。飲み物はお茶を沸かしてある」「そうだな、お前達が食べているのを見ていたら小腹が空いて来た。じゃあ頂こうかな」 アベルからサンドイッチとお茶を受け取り、地べたに座り込む。簡単な食事だが、活力が湧いて来るのを感じる。現実の冒険であれば当然のことだが、途中で補給を行う必要がある。VAOがゲームのときにはなかった現実的な問題である。これも世界が変わった影響で、今後もこういった発見があると思うと、カリナは内心ワクワク感が湧き上がって来るのを感じた。「ヤコフ、ちゃんと食べているか?」「うん、さっき貰ったから食べたよ。美味しかった」「そうか、良かったな」 魔物をヒルダが一掃したので、辺りにはもう何の気配もない。時間が経てばリポップすることになるのだろうが、暫くは問題ないだろう。渡されたカップに注がれたお茶を啜りながらカリナはそう思った。 食事を終え、少し休憩した後、一同は地底湖のある階層に進むことに決めた。普段は何も出現しない、鍾乳洞
迷宮の扉を開けて中へと入ると、地下へと続く広い通路に階段がある。そこを降って行くと迷路の様に広がる巨大な階層へと到達した。 VAOの頃からこの迷宮は地下7層まである。その下には地底湖が広がっていて調度良い休憩場所にもなっていた。そして7層にある死者の間には巨大な鏡があり、そこでは死者に会えるという設定があった。ゲームの頃にはただの設定だったが、今や現実となったこの世界では、本当に死者に会えるのかも知れない。カリナの目的の一つは、その鏡の前で過去に死に別れたある女性との再会が可能かどうかを確かめることだった。 一行が迷宮を進んで行くと、前方から魔物の気配が近づいて来た。「おいでなすったぜ、死者の迷宮の定番。グールにスケルトンだ」 ロックがそう言って二刀のナイフを抜く。他のメンバーも戦闘の準備に入り、襲い来る魔物達をなぎ倒していくのだが、カリナは後方でヤコフの側に白騎士を待機させて眺めていた。「張り切っているなあ。このままでは私の出番はないかもしれない」「カリナお姉ちゃんも戦いに参加したいの?」「うーん、あのぐじゅぐじゅしたアンデッドに関わりたくはないのが本音かな……。できれば触りたくない、臭い」 現実となった世界では、この死者の迷宮内部の腐臭は酷いものだった。鼻がひん曲がりそうである。アンデッドが湧き続ける限り、この悪臭が続くのかと思うと、気が遠くなりそうになった。それにこのまま素直に正攻法で攻略していては時間がかなりかかりそうである。ヤコフの両親の安否も気になるため、カリナは一気にこの迷宮の魔物を掃除することに決めた。 その場で両手を広げ、魔法陣を展開させて詠唱の祝詞を唱える。「遥かヴァルハラへと繋がる道を護る者よ、炎を纏う戦乙女よ、その姿を現せ!」 重ねた魔法陣が地面へと移動し、そこから白いロングスカートに全身鎧を身に纏った戦乙女、ワルキューレが姿を現した。「お久し振りでございます、主様。ワルキューレ、ヒルダ。ここに参上致しました」 戦闘を終えて戻って来たシルバーウイングの面々も初めて見る召喚魔法とその召喚体の美しさに目を奪われている。「ああ、久し振りだな。どうやら長い時間お前達を放置してしまったみたいだ。申し訳ない。いつの間にか時が流れていたみたいでな」「いえ、こうしてまた呼んで頂き光栄でございます。さて、此度の御用は如何なもの
宿の女将さんに教えてもらった防具屋に着く。まだそれなりに早い時間帯だが、その店は既に営業を開始していた。入り口の扉に「OPEN」と書かれた札が掛けられている。カリナがヤコフを連れて店に入ると、店の店主が声を掛けて来た。「おや、いらっしゃい。こいつは可愛らしいお客さんだ。もしかして冒険者なのかい?」 店主はどうやらドワーフのようで、恰幅の良い体格、言い換えればずんぐりとした小柄の体格に顔には立派な髭を蓄えていた。手先が器用な種族で鍛冶や生産などにその能力を発揮する。ゲームプレイヤーなら誰もがある程度は知っている知識である。 その店主は、まだ幼さが残る少女が小さな子供を連れて来たので驚いたのだろう。「おはよう。店主、済まないがこの子に合う防具を見繕ってくれないだろうか?」「まあ、客の要望だから応えさせてもらうが……。こんな子供を冒険にでも連れ出すつもりなのかい?」「少々訳ありでな。この子のことは私が守る約束だが、万が一に備えてね。どうかな?」「ふむ、客の事情には深入りはせん主義だ。子供でも着れる軽い装備を準備しよう」「話が早くて助かるよ」 店主はヤコフの身体をごつい手で掴み、素早く寸法を測り終えると、身体に合うサイズの軽いレザーアーマーを着せてくれた。頭にもなめし皮で作られた頑丈な皮の帽子の様な兜を被せた。さすがドワーフだけあって、皮の製品であっても硬く、防御性能は高そうである。この装備に依存する展開が来ないことが一番だが、念には念を入れてのことである。「これでどうだ? ウチでは一番小さいサイズだが、かなり硬くなめした皮で作っているから、多少の攻撃ではびくともしないはずだ」 鎧と帽子を身に付けたヤコフが鏡の前で自分の姿を見て確かめている。「すごいね、これ。硬いのに軽いから着ていても全然苦しくないよ」「そうか、ならそれにしよう。店主、値段は幾らだろうか?」「そうだな、本当は二つ合わせて8,000セリンだが、サイズが合う人間がいなくてな。もう売れないと思っていたから5,000に負けておくよ。それでどうだ?」「わかった、それで十分だよ。ありがとう」 カリナが代金を払うと、店主から「まいどあり」という言葉が返って来た。こういう店での定番のやり取りである。「良い買い物ができた。また機会があれば寄らせてもらうよ」「おう、気を付けて行ってきな」







